連載:みよし街並み歴史散歩 その30
株式会社 菁文社
弊社が2007年(平成19年)に発刊した「みよし街並み歴史散歩(三次・十日市・八次・酒屋 編)から一コラムづつ連載します。
三次の再発見があるかもしれません。
なお、三次市は周辺町村との合併以後大きく変わりつつあります。発刊時期とのずれがあることはご了承ください。
この「みよし街並み歴史散歩」は、B6判の単行本です。お求めは小社 TEL(0824)62 3057 または 三次市内の書店へご注文ください。
【頼杏坪(らいきょうへい)父子寄進の石灯籠】 境内の西側、義士堂へ上る石段の途中で、右側に稲荷神社が見えます。ここには有名な頼杏坪とその子の寄進した石灯籠が一対残っています。このお宮は、三次浅野藩時代には下屋敷(現尾関山駐車場)に祀られていましたが、明治になってこのお寺に移したものです。
頼杏坪は奥郡の代官を長く勤めた後、文政11年(1828)73歳で三次町奉行に任命されました。息子の佐一郎は当時37歳で、藩の勘定吟味役同格の任にありましたが、高齢の父を気遣い、特別に許されて「郡御用向相勤」を表向きの理由にし、一緒に三次へ転居して父の面倒をみました。灯籠はその年の12月に、下屋敷に残っていた稲荷神社へ寄進したものです。それぞれの灯籠に「頼惟柔(らいただなご/杏坪)」、「頼舜(らいみちてる/佐一郎)」の名前が刻まれています。
【非運の志士藤田陶庵(ふじたとうあん)の碑】 境内の石段の上り口に高さ1.5メートルあまりの石碑があります。明治3年(1870)から僅か2年間、三次に漢学塾「益習館(えきしゅうかん)」を開いていた藤田陶庵を記念するために門人たちが建てたもので、碑文は九州で陶庵と同じ塾に学んだことのある岡山の興譲館(こうじょうかん)主坂田警軒(さかたけいけん)によります。
陶庵(本名岩村八郎)は九州の対馬藩士で、幕末に攘夷(じょうい)を唱え「其論は激烈にして深く幕吏の因循を憤り=その考えは過激で幕府の古い体質を非難し」(碑文、原文は漢文)、各地の志士と連絡をとるなどして運動し、投獄されましたが脱獄して逃れ、一時備後国東城(庄原市)に身を寄せた後、招かれて三次に塾を開きました。しかし病気のため明治5年36歳の若さで没しました。「生きて国賊を滅ぼす能(あた)わず、死しては必ず閻魔(えんま)王と為(な)らん」(同)と言葉を残して逝ったということです。陶庵は明治維新のために尽力し、世に迎えられないまま三次で客死(かくし)した人であったといえます。本堂の東側の墓地に「藤田陶庵先生墳」と刻む墓もあります。
【浅野長治と福田藤兵衛の墓】 鳳源寺からいったん市道へ出て、西へ30メートルばかり進むと、道の両側に「浅野長治公墓所」の標識があります。その矢印にしたがってゆるやかな山道を約200メートルほど上ると、右側の平らな所に福田藤兵衛の墓があります。彼は三次藩士(長治の家臣)で長柄(ながえ)奉行、知行二百石でしたが、長治の死後剃髪(ていはつ)して忌軽(きけい)(墓碑には志軽)と名を改めてここに庵(いおり)を建てて蟄居(ちっきょ)し長治の菩提を弔いました。10年後の貞享2年(1685)8月没しています。(『三次分家済美録』)。
中世から近世初めにかけて、武士が死んだ主君の後を追って切腹(殉死/じゅんし)する風習がありましたが、幕府は寛文3年(1663)にこれをきびしく禁止していましたので、藤兵衛は蟄居の道をとったのでしょう。作家山本周五郎の短編小説『殉死』(昭和18年発表)はこの福田藤兵衛を扱った小説です。
さらにゆるやかな山道を進むと、やがて参拝者を出迎えるように道の左右に石灯篭が108基ずらりと浅野長治の墓前まで並んでいます。この石灯篭は平成13年(2001)地元の人や会社が寄進したものですが、江戸時代にも5、6拾個の石灯篭が並んでいました。
延宝3年(1675)江戸で正月を迎えた長治は、1月15日の夜、突然耳に痛みを訴え、17日には意識不明の重態となり19日に急死しました。61歳でした。かねてからの遺言であったのでしょうか遺体は三次へ送られることになり、25日江戸を発ち陸路大坂へ、大坂から海路忠海(竹原市)へ、三次へ着いたのは20日後の2月14日のことでした。長治は「御存生の如く」(『三次分家済美録』)藩境の東酒屋村で近習の者たちの出迎えを受け、その他の家臣たちが岩神渡しで威儀(いぎ)をただして出迎える中を三次へ着きました。その夜尾関山の下屋敷で葬儀が行われた後、三日間鳳源寺で朝夕御膳を献じて法要が行われ、一九日にここへ葬られました。長治が町づくりに努力を傾けた三次の町が見下ろせるこの場所に埋葬したのも、長治の遺言だったのかも知れません。
43年間にわたって三次を治めた長治は、死後も「鳳源院様」(鳳源院は長治の法名)とか「因幡守(いなばのかみ)様」(因幡守は長治の官職名)とよばれて、三次町民から長く尊崇されました。先にあげた石灯篭の寄進も、人びとの崇拝の念が今なお続いていることのあらわれだといえます。
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山本周五郎の 『殉 死』
山本周五郎の『殉死』は昭和18年(1943)に書かれたにもかかわらず、真山青果の『元禄忠臣蔵』とは違い、そこには生を肯定する人間観がある。『一人ならじ』という新潮文庫の一冊に入っている。忠臣蔵と同じ武士道を柱としながら、二人の青年侍の対立を通して、清々しい読後感が残る。仇討ちが作法も整えられ、制度化されるのに対して、殉死は禁止される中で、生き方を模索し対立する青年二人の姿は、より鮮烈に読者に問いかける。三次の四季をさりげなく、しかし卓抜に描かれ、作者みずから取材に三次を訪れたと思われる。冬の鳳源寺の描写を一つ引用しよう。
「かみの毛も凍るかと思われる北風がおりおりどっと吹きつけてくる」
・・・つづく
基本情報
| 名称 | 株式会社 菁文社 |
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| フリガナ | 株式会社 菁文社 |
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| 住所 | 728-0023 三次市東酒屋町306-46 |
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| アクセス | 国道375号線三次工業団地口交差点より北へ850m |
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| ファックス番号 | 0824-62-5337 |
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