「ふるさとの峠と街道」は、第1部 ふるさとの街道、第2部 ふるとさの峠 として2部構成でお届けします。
第1部「ふるさとの峠」は、昭和54年(1979)5月から「げいびグラフ」誌上に“峠を語る”シリーズとして21回にわたって連載したものです。今では交通機関の多様化とこれに伴う土木技術の発達により大巾な改修がすすみ、峠は旧来の峠としての機能を失って、峠の存在すら忘れ去られています。
このたび、あえて連載当時の記述に修正を加えることなく取材当時の内容を再掲し峠を歴史の証として伝えることにしました。
【防地峠(ぼうじだお/双三郡君田村)その①】
― 典型的ローカル峠の命運 ―
以前、峠地名のことについてある地方新聞に書いた時、早速、著名な地名学者から「ぼうじ峠という地名があるのか、その地名は是非大切に保存するように」という旨の丁重な手紙をもらったことがあった。その頃、その地名に特別の関心をもっていたわけでもなかったから、私自身の問題意識にもならず、そのままにしておいた。
今度、防地峠を執筆するに当たり、色々調べたり聞いたりしているうちに、その先生の指摘されたことが、峠のいわば本質に根ざす極めて重要な指摘であったことがわかり、改めて教えられ感服している。
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防地峠は、県道三次―高野線の三次市西河内町から北へ山越えをして、双三郡君田村の藤兼地区へ越える峠の名称である。
村越え峠ではあるが、江戸時代には「雲伯路」と称し、出雲・伯耆国など山陰側と備後国を結ぶ主要な脇街道の一つであった。『芸藩通志』は「雲伯路阿井越、三次より同郡吉田村まで里程凡二里廿七町」とし、途中に「藤兼村十三町ぼうじ坂、みのう坂あり」と、この峠をぼうじ坂と記している。
「防地(ぼうじ)」は榜示(ぼうじ)山から付けられたものであろう。『芸藩通志』は「藤兼村にある」とだけ記しているが、地元では峠の東側一帯の山地だと称している。なお、榜示は「牓示」とも書き、ぼうじ、またはほうじとも読む。
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さて、榜示(牓示)とはどのような意味であろうか。それは一定の地域、例えば封建時代の領主の領地や、荘園時代の荘域などの境界を示すために杭・石・札などを立てた、その標識物のことである。
峠が、その本質的な機能として持つ境界性や遮断性ゆえに、当然このような地域には、“牓示”が設置されても不思議ではない。榜示地名は、峠の本質的機能に根ざす代表的、典型的な地名だということができる。著名学者先生の指摘の内容をいまかみしめている。
しかし、この防地峠の榜示が、どんな地域の境界を示す榜示であったのか、そしてそれが、いつ頃、なぜ防地になったのかについては、地元の人も村役場でも充分に納得のゆく説明は得られなかった。ただ『芸藩通志』にみると「西河内村以下、三十村を飛田荘(とびたのしょう)といふ」とし、現在の君田・布野・作木などの一帯の諸村が一つの荘園であったとしている。さすれば、その荘園の、榜示の一つが建てられていた場所とも推察されるが、今日その「飛田荘」の時代や領有関係が全く解明されてない段階ではその根拠は薄い。また最近は、中世の「入君保(いりぎみほ)」(君田村の南半分)の四至を表した榜示の一つであったという説明も提起されている。
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私は、典型的に機能している峠の条件として、次の5つを私論としている。
1、峠地名、即ち峠(とうげ)、垰(たお)、坂越(さかごえ)などの名称が付いていること。
2、他の地域と隔絶し、一定の地域の境界をなすような地形、即ち登り下りのある山地形であること。
3、現に通行のコースとして人や交通機関に利用されていること。
4、かつての茶店、今日のドライブイン、モーテルなど通行者を相手とする商店があること。
5、峠の歴史性が明らか(文献・遺物等)であり、民俗的信仰や習俗をとどめていること。
これら5つが揃っている時、峠は完全に生きて機能しているといえる。しかし、今日峠と呼ばれてはいるが、これらの条件をすべて兼ね揃えているとはいいがたい峠が多い。特に小規模な地方の峠の場合はなおさらである。さらに、最近の土木技術の発達や自動車交通の発展は、峠の様相を大きく変えつつある。今その現象的特徴から3つのパターンに分類し、仮に名称を付けて峠の今日的状況を見ると、
①従来型峠=道路の補修や改修は多少施されてはいるが、昔のままのルートで旧道の面影を見ることかできるもの。
②改修型峠=大幅な補修や改修が施されて近代化した道路となり、旧道は部分的、点在的にその付近に残ってはいるが、かつての面影は見るべくもない。
③滅亡型峠=トンネルや橋梁の建設によって、峠のあった旧道から新道は遠く離れたため、峠全体が機能を失い、通常の交通ルートでなくなったもの。
概して、①は小規模な町村道ではあるが、数は少なくなっている。②は町村道や県道などローカル峠で、数としては今、最も多い。③は県道、国道などの大規模な峠といわれたものに多いが事例は少ない。
写真【旧道。前方が江戸時代の防地峠の頂上。付近の人は「殿さんが通った道」といっている。】
◆次回は防地峠その②紹介します。
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