新連載:ふるさとの峠と街道 その12-②
株式会社 菁文社
「ふるさとの峠と街道」は、第1部 ふるさとの街道、第2部 ふるとさの峠 として2部構成でお届けします。
第1部「ふるさとの峠」は、昭和54年(1979)5月から「げいびグラフ」誌上に“峠を語る”シリーズとして21回にわたって連載したものです。今では交通機関の多様化とこれに伴う土木技術の発達により大巾な改修がすすみ、峠は旧来の峠としての機能を失って、峠の存在すら忘れ去られています。
このたび、あえて連載当時の記述に修正を加えることなく取材当時の内容を再掲し峠を歴史の証として伝えることにしました。
【二本松峠(にほんまつとうげ/比婆郡東城町)その②】
― 若山牧水ゆかりの地 ―
番所は請負制の百姓番で、七石余の給米と紙・灯油・薪代が支給され、請負元の依頼を受けた百姓が交代で勤務した。番所には備後側福代村の番所役人と、備中側天領大竹村の番所役人がそれぞれ東西別個の控室に詰め、交代でひとりずつ中央の板の間に出張って通行人を監視したという。
もと福代村百姓番請負元であった生熊氏の親類筋にあたる栃木敏彦氏宅には、当時役人が犯人取押さえに使用した槍・そでがらみ・鳶口(とびぐち)などの用具類や、番所心得を示した掟書(おきてがき)が保存されている。本来この掟書は藩で定めたひながたがあり、「公儀御荷物が通るときには行きがかりの人馬を片寄せ支障のないようにせよ」とか、「御大名ならびに御直参衆(おじきさんしゅう/旗本・御家人の総称)が通るときには掃除をしておき、人馬をしばらく押さえておいて、最もいんぎんに下座せよ」、あるいは「旅に疲れた旅人や病人などがきたときは養育」、また「傷を負ったりとり乱した者が通ったときは留置」し、さらに「挙動不審の者が通ったときには住所、行先、旅をする理由などをくわしく尋ね」それぞれ所の役人に連絡することを指示する内容のものであったが、栃木氏宅のものは「公儀御荷物」の条がなく、次の「大名ならびに御直参衆」の字句が「朝廷御役人」に変更されているので、大政奉還直後の明治元年のものと考えられている。
現在、番所の跡地には遠藤義郎氏の居宅が建っている。その屋号を「番所」と称しているのは、今でもそのほうがわかりやすいからであろう。街道に面した石垣は昔のまま。ただ番所の正面出入口の石段であった部分を石組みで埋めて、全体の石垣と前の面をそろえ合わせてあるが、埋めたところが縦の線ではっきりと識別できるのが面白い。
街道の桜並木は、今では数本を残してほとんどが枯れ、その株をとどめるだけで、峠全体が淋しい景色となってきているが、遠藤氏の話では、むかしはちょっとした町並みで、この峠はあんがいはなやいだ雰囲気がただよっていたという。明治・大正のころは、備後側には菓子や餅、ラムネ・酢・たばこ・コップ酒などを売る「峠の茶屋」として親しまれていた安広店、菓子と餅だけの茶屋栃木店、魚・乾物・雑貨を扱う小川店、ツケ木専門の瀬尾店、乾物・雑貨の二川店などが立並び、備中側にも造酒屋(つくりざかや)の大邑店、うどん・酒などの飲食のほか、宿屋を営んでいた熊谷屋(安達店)があったと遠藤氏は話してくれた。
二本松峠は標高413メートル、とくに東から峠にさしかかった場合、眼下西方に備後の山なみが遠く近く眺められ、はるばる旅をしてきた感慨がほとばしる場所である。このような場所、このような雰囲気のなかで、たまたま明治40年6月、当時早稲田の学生であった若山牧水は、郷里宮崎に帰る途中この峠に一夜を過ごし、「幾山河越えさりゆかば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅行く」の名作をのこしたのである。(昭和58年11月 難波宗朋)
写真【二本松峠の街並み、桜の並木もほとんど枯れて切り株が残っている。左の家が「峠の茶屋」で親しまれた安広店】
◆次回は防地峠を紹介します。
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基本情報
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フリガナ | 株式会社 菁文社 |
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アクセス | 国道375号線三次工業団地口交差点より北へ850m |
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ファックス番号 | 0824-62-5337 |
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メールアドレス | geibigrf62-3057@seibunsha-f.com |
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