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新連載:ふるさとの峠と街道 その1-2

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新連載:ふるさとの峠と街道 その1-2
「ふるさとの峠と街道」は、第1部 ふるさとの街道、第2部 ふるとさの街道 として2部構成でお届けします。
 第1部「ふるさとの峠」は、昭和54年(1979)5月から「げいびグラフ」誌上に“峠を語る”シリーズとして21回にわたって連載したものです。今では交通機関の多様化とこれに伴う土木技術の発達により大巾な改修がすすみ、峠は旧来の峠としての機能を失って、峠の存在すら忘れ去られています。
   このたび、あえて連載当時の記述に修正を加えることなく取材当時の内容を再掲し峠を歴史の証として伝えることにしました。



         【赤 名 峠(あかなとうげ/双三郡布野村)その②】
            ― 国境(くにざかい)としての ―

 文化8年(1811)、広瀬藩領の赤名宿に属する21カ村の百姓は、大森銀銅輸送助郷訴願を起こした。
 天領大森鉱山の産出品は、毎年10~11月頃に、備後の尾道まで陸送して船積みされた。幕府は、この公用荷物の赤名から三次まで24キロの輸送を、赤名村附近21カ村の助郷(すけごう)としていた。
 馬約300匹、人夫約400人による初冬の赤名越えは、あまりにも負担が多く、ひいては、21カ村の疲弊にもつながる。16キロ先の布野宿継にせよ、という広島藩領の布野宿を相手とする助郷軽減要求が訴訟の目的であった。
「……全国無類の難所、赤名峠と申すを風雪激しき時節がら、人馬ども進みかね、四里布野宿までまかり越し候ハは、最早や六ツ過ぎ(十八時)に相成候。……艱難心苦仕り、老人幼年のものは行き悩み倒れ伏候て声を立て泣きわめき……」(『飯石郡誌』より)
と、峠越えの苦労をせつせつと訴えている。10年に及ぶこの大訴訟は、結局は「増助郷七カ村」という形で決着し、原告赤名宿側は敗訴に終わる。しかし、このような大訴訟を決断した村役人を始め、小前百姓達の願いの背景には、境界を越えて他領深くまで輸送しなくても……という、峠=境の意識が強く働いていたのではないであろうか。
         *
 峠近くの、布野村出身のアララギ派の歌人中村憲吉(1889-1934)は、大正8年(1919)に発刊した歌集「しがらみ」の中で、

  君を送り国のさかいの山越えのふかき峡路に別れけるかも

と詠んでいる。赤名峠の深い山峡に友人を見送った感動を、うまくまとめている。
 この頃には、赤名峠にも荷車から馬車へ、やがて乗合自動車が姿を現す時代になっていた。
 大正10年(1921)から昭和8年(1933)迄、峠の茶店で育った井上よしみさん(65)=赤来町上赤名=は、娘盛りを懐かしく想い出しながら、話してくれた。
「印象に残っとることといえば、大雪の中を苦労して峠を登って来る人が、大勢で店のいろりで暖をとり、衣服を乾かしていた。毎年秋になると、広島の砲兵隊が三瓶山へ演習に行く途中、店で休んでくれた。大将の方は楽げにあったが、兵隊は休憩じゃいうても、馬の足をさすったり、草刈りに山へ入ったりして、大層苦労されとった。水筒に水をくれえ言われるけぇ、裏口からそっと砂糖水にして渡してあげたこともある。……」
         *
 昭和39年(1964)、国道54号線の全面改修に伴い、標高560メートルの位置に赤名トンネルが完成した。全長600メートル、幅6.5メートル、距離は3分の2に短縮された。自動車で通過すれば、峠越えの感じは少なくなった。
 今、境としての赤名峠の使命は終わっている。江戸時代の旧道が既に山と見分けがつかぬ程に荒れ果てているように、やがて、この「大曲り」の赤名峠も、同様の運命をたどることであろう。そういえば、つい最近、境としての峠のシンボルであった塞ノ神(さいのかみ)を祀った祠(ほこら)も、誰かに盗まれてしまったという。(昭和54年5月 米丸嘉一)

【写真:今は通る人影もない赤名峠の旧道】

◆次回は、宇賀峠(甲奴郡甲奴町)を紹介します。



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