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三次の地域情報サイト「まいぷれ」三次市

連載:みよし街並み歴史散歩 その18

株式会社 菁文社

 弊社が2007年(平成19年)に発刊した「みよし街並み歴史散歩(三次・十日市・八次・酒屋 編)から一コラムづつ連載します。
三次の再発見があるかもしれません。
 なお、三次市は周辺町村との合併以後大きく変わりつつあります。発刊時期とのずれがあることはご了承ください。
  この「みよし街並み歴史散歩」は、B6判の単行本です。お求めは小社 TEL(0824)62 3057 または 三次市内の書店へご注文ください。

    内町、中通りを歩く

 かつての「三次町」の正面玄関は松原(岩渡し)、東玄関は専法寺浜・才ヶ瀬渡し、北玄関を太歳町宮の峡口とすれば、西玄関は「運上場(うんじょうば)」となりましょう。今回は内町西詰めから大工町、中通りを経て西本町までを歩きます。明治・大正期、白帆を揚げた高瀬舟船団の出入りで賑わった内町から、近世は、「御館(おやかた)」、近代は「郡役所」など官庁街だった西本町まで、昔を偲びながら散策したいと思います。

【祝橋東詰付近―運上場ほか】 先ず祝橋に出てそこから歩を進めてみましょう。現在の橋は昭和34年(1959)に開通したもので、もと可部の太田川橋の鉄骨アーチを移設したおさがりなのです。それより以前は昭和6年(1931)に完成した大吊橋(おおつりばし)で、普通車も通れる見事なものでした。おりしも三次浅野長治入封三百年祭記念の年で、最後の大名浅野長勲の揮毫(きごう)による「祝(いわい)橋」と書かれた大きな青銅の扁額(へんがく)が鉄塔の中央に掲げてありました。
 祝橋歩道橋の欄干にもたれて川面に目をやり、流れを追うと、川の流れは尾関山の裾(すそ)の岩場に当り、深い渕を造って左に反れながら下っていきます。この渕は「大渦の渕」と呼ばれています。その頃の江の川は上流にダムなど無くて豊富な水量の流れが岩場に当り、大きな渦を巻いて流れの方向を変えていたので、この名がついたと伝えられていますが、「大渦の渕」は「おおずのふち」と発音されていますので、江の川舟運のターミナル、大きい港の意味の「大津(おおづ)」の語呂合わせと思われます。
 江戸時代から大正期までは、帆を張った高瀬舟が次々とこの大渦の渕を通って、この祝橋辺り右岸の船着場に接岸し、荷物の積み下ろしをしました。当時、内町の西の端に当るこの場所は「運上場」と呼ばれ、領内流通の木材はここで管理されました。
 江戸時代には内町入り口には木戸があり、その北側角に「口屋」といって勘定奉行の管轄で林産物などの流通を取り仕切り、10分の1の運上銀を取り立てる所がありました。道を挟んで向い南側角は「御材木場」がありましたが、近代になってからは祇園神社がありました。
 祇園神社の祭は弁天さん(十日市)の夏祭り「おかげんさん」(十七夜)についで賑やかでした。平成14年(2002)、堤防や道路の改修工事で町筋の北側の現在地に遷座しました。
 目線を上げると正面に尾関山、そしてその後に比熊山の大きな山容が横たわっています。四季を通じて眺めの良い所です。
 現在の祝橋は内町の道筋の延長線上からは少し下流側にずれていますが、元の橋は真正面であり、土手から真っ直ぐに坂道でつながっていました。つまり、橋の東詰の所で土手筋と内町筋が交差して十字路になっていましたが、最近の堤防のかさ上げや道路の大改修で現状のような進入路につけ変わりました。
 戦前までは、この内町入り口角に倉迫大吉商店があって、店先に藤棚があり、その下に縁台が並び、地面に置かれた盥(たらい)に氷水を張ってラムネやサイダーが冷やしてありました。粟屋村の山道や川沿いの道を歩き、やっと祝橋にたどり着きこれから三次の町に入ろうという時、また、三次の町で買物を済ませ、これから山里へ帰ろうとする時、多くの人たちはこの縁台で一休みし、ラムネでかわきをいやしてまた歩き続けたものです。
・・・つづく

基本情報

名称株式会社 菁文社
フリガナ株式会社 菁文社
住所728-0023 三次市東酒屋町306-46
アクセス国道375号線三次工業団地口交差点より北へ850m
電話番号0824-62-3057
ファックス番号0824-62-5337
メールアドレスgeibigrf62-3057@seibunsha-f.com
営業時間8:30~17:30
定休日土・日曜、祝日
駐車場あり
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