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新連載:ふるさとの峠と街道 その16-②

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新連載:ふるさとの峠と街道 その16-②
「ふるさとの峠と街道」は、第1部 ふるさとの街道、第2部 ふるとさの峠 として2部構成でお届けします。
 第1部「ふるさとの峠」は、昭和54年(1979)5月から「げいびグラフ」誌上に“峠を語る”シリーズとして21回にわたって連載したものです。今では交通機関の多様化とこれに伴う土木技術の発達により大巾な改修がすすみ、峠は旧来の峠としての機能を失って、峠の存在すら忘れ去られています。
   このたび、あえて連載当時の記述に修正を加えることなく取材当時の内容を再掲し峠を歴史の証として伝えることにしました。



【権現峠(ごんげんだお/比婆郡東城町)その②】

― 馬も難儀した崩土との闘い ―

 この地方は古くからの砂鉄産地。源平の昔、源義経を支援した鉄商人、金(かね)売り吉次(きちじ)は東城町の隣り、岡山県哲西町の人で、旧小奴可村(現東城町)は大和の豪族額田(ぬかだ)氏の所領。589ヘクタールの耕地のほとんどが、砂鉄採取の排土である。旧川鳥村も明治8年(1875)の調査で藩政時代の60パーセントも耕地が増加している。これは持ち山を鉄穴(かんな)流しで崩して砂鉄を採取し、跡地を開拓したためで、ツルハシが立たない個所は“骨”といって残され、残丘となっている。砂鉄採取は花崗岩の深層風化地帯で行われ、タタラの炉で銑鉄が造られた。一方、西城町では各地から鉄を集積して広島や尾道へ送る問屋が江戸時代には多くあった所で、明治10年頃には銑鉄から鍬や鎌などを打つ錬鉄を作った大鍛冶が、市街地を中心に8キロ以内に36カ所もあり、年産1万2千駄(推定)を出荷していた。こうしたことから車道ができた頃の権現峠は、前曳き、後曳きの荷車で賑わい、茶店も立った。酒や魚、日用品を積んだ車や天びん棒をかついだ商人たちも往復した。
 昭和12年(1937)、比婆郡庄原町(現庄原市)に右近自動車商会が設立され、5人乗りの定期自動車フォードが、権現峠を越えて西城 ― 東城間を走るようになった。
         *
 もともと西城町は、藩政時代に奴可郡(東城、西城)の郡役所のあった所で、近年まで保田、川鳥方面から西城へ集団で盆、節季の買物や牛市などに出かけることが多かった。しかし「合併するなら西城と――」の声があがったほどのこの一帯も、昭和30年(1955)の東城町との合併以後は、交流も薄れる一方である。帝釈峡と西城を結ぶ新市 ― 七曲 ― 西城線の拡幅が完了すれば、バス路線も変更になるかもしれず、権現峠を挟む地域のつながりは一層心細くなりそうだ。峠の西側に住む保田地区の農業、藤本善子さん(75)は「もう昔のように、ちょうちんを提げた祝言の行列など見ることもなくなりました。明治27年に作州から西城の爾比都売(にひつめ)神社(郷社)へ、木山さんの御分霊の列が夜の峠を越えて来ました。神器、幟(のぼり)、長持(ながもち)、人力車などの火が続き、壮観でした。世の中が変わって、私の家も息子は東城へ、嫁は西城へ勤め、六頭の牛も出してしまいました」と淋しそう。
 “東城道路”の深い谷間には休耕田が雪をかぶっている。変わったといえば、近年砕石会社が大きな岩石を切り崩し活況を見せていることだろうか。(昭和60年3月 米花 斌)




        
写真【谷底までの深さ数十メートル、ガードレールの無い所もあって運転者泣かせの難所である】

 


◆次回は瀬谷峠を紹介します。



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