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新連載:ふるさとの峠と街道 その17-①

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新連載:ふるさとの峠と街道 その17-①
「ふるさとの峠と街道」は、第1部 ふるさとの街道、第2部 ふるとさの峠 として2部構成でお届けします。
 第1部「ふるさとの峠」は、昭和54年(1979)5月から「げいびグラフ」誌上に“峠を語る”シリーズとして21回にわたって連載したものです。今では交通機関の多様化とこれに伴う土木技術の発達により大巾な改修がすすみ、峠は旧来の峠としての機能を失って、峠の存在すら忘れ去られています。
   このたび、あえて連載当時の記述に修正を加えることなく取材当時の内容を再掲し峠を歴史の証として伝えることにしました。



【瀬谷峠(せたにだお/三次市)その①】

― 地方史のシンボルとして ―


 国道54号線に忘れられた峠がある。
 三次市の南部、青河町と下志和地の境、山を深く切り通した部分を、芸備線と国道がすり合うように平行して走っているところ、瀬谷峠がそれである。
 昭和45年(1970)の国道の改修完了によって、幅員も拡張されて二車線となり、比高も削られて低くなり、見違えるほどの近代的道路となった。勾配の少ない青河町側にくらべ、下志和地町側はやや急な坂ではあるが、自動車で通れば難なく瞬時に通過する。峠を通ったという感じはほとんどしない。人々の意識の中にはこの瀬谷峠はもう存在していない。
しかし、この峠も他の多くの峠がそうであるように、歴史の発展にさおさし、それぞれの時代性を反映しながら、就中(なかんずく)その時代の交通状況を敏感に受け止めながら、そのプロフィール(横顔)を変化させて来ている。
 今、地元の古老からの聞き取りをもとに若干の史料と合わせ、できるだけ正確にこの峠の復元を試みてみよう。
         *
 地元の人々が今“旧道”と呼んでいる道は、江戸時代の雲石(うんせき)路、俗称広島街道であり、現在わずかに残っているにすぎない。寛永10年(1633)に広島藩は、この道を奥郡支配の基幹路、出雲・石見地方への連絡路と認めて、一里塚や宿駅制の施設を設け、幅七尺の官道として管理していた。
 峠越えのこのルートを『芸藩通志』の村絵図で見ると、下志和地村から青河村へは西側の山斜面に描かれており、谷沢をやや避けている感じである。頂上付近に今もかごたてばの跡と称されるところがある。恐らく武士階級など駕籠で道中する人々が、急峻な峠越えで乱れた隊列をこの場所で立て直したのであろう。
 また「広島海田辺商人、奥郡へ入込み、並に雲石因伯辺迄も古手小間物類繰(くり)出し(中略)馬方ども年中運送交易」(「三次町国郡誌」=『三次の歴史』=菁文社)した人々も、恐らくこの峠越えで三次の町へ入ったことであろう。
 なお、頂上の東側には松ヶ迫堤(まつがさこつつみ/溜池)があり、池からの水はこの谷に落ちて両村の灌漑用水となっていた。青河村側は頂上付近まで水田が開けていたらしい。
 明治になっても、しばらくはこの峠の状態は続き、明治18年(1885)に県道に指定されて改修が始まった。
         *
 明治22年(1889)に県道が敷設された。頂上から下志和地村側へかけては旧道をほぼ踏襲したが、青河村側は山麓に新道を建設した。そのために旧道は志和地側では完全に消滅し、青河側は地元民の生産・生活路に利用される部分以外は荒廃することになる。
 交通機関は、荷車・人力車の時代になった。鉄輪の人力車が山峡に音を響かせながら、一日に何十台となく走っていた、と古老が懐かしそうに語ってくれた。峠付近には車夫をしていた家もあり、青河村側A氏宅の前が、そのたまり場(客待ち)になっていた。
 峠の茶屋がいつ頃から始まったのか定かではない。ただ、明治34年(1901)陸地測量部発行の5万分の1地形図「三次」には峠の茶屋を記入している。麓の下志和地村K氏の先祖に当たる老夫婦が開店したものである。山からの水を懸け樋で木桶に引き、そこにはラムネがいつも冷えていたという。付近の人々は、農作業のあい間にも駄菓子を買い求め、ラムネを飲みに行ったという。
 やがて、この峠に鉄道が敷設される。

 


◆次回は瀬谷峠②を紹介します。



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