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三次の地域情報サイト「まいぷれ」三次市

連載:みよし街並み歴史散歩 その28

株式会社 菁文社

 弊社が2007年(平成19年)に発刊した「みよし街並み歴史散歩(三次・十日市・八次・酒屋 編)から一コラムづつ連載します。
三次の再発見があるかもしれません。
 なお、三次市は周辺町村との合併以後大きく変わりつつあります。発刊時期とのずれがあることはご了承ください。
  この「みよし街並み歴史散歩」は、B6判の単行本です。お求めは小社 TEL(0824)62 3057 または 三次市内の書店へご注文ください。

【西江寺(せいごうじ)】 臨済宗。太歳神社の西隣りにあります。西江寺は関ヶ原の戦いの後、福島正則の家臣尾関正勝が三次地方を支配したときに、三吉氏が比熊山城内に建てていたお寺を移し、西江寺としたのがはじまりです。しかし、お寺の歴史は古く、奈良時代に恵美押勝(えみのおしかつ)が畠敷村に医王山高源寺(いおうさんこうげんじ)を建てたのが始まりと伝え、その後衰微していましたが、三吉氏が京都南禅寺の僧平田慈均(へいでんじきん)を招いて再興したと伝え戦国時代に戦火にかかり、石原村(君田町)に移って清巌(石)寺(せいがんじ)といっていました。 
 お寺の墓地には、三吉広高や尾関正勝の墓と伝える墓をはじめ、三吉氏や後の浅野氏の家臣の墓も多くあります。お寺所蔵の木造平田慈均和尚坐像(市重文)は室町時代のものです(三次市の指定文化財には「平田和尚」となっていますが、慈均和尚の誤りです)。
 西江寺の墓地からさらに西の妙栄寺(みょうえいじ)の墓地へ下る小道のそばの片隅に、法務省という石柱の立つ2坪ほどの狭い墓地に二つの墓があります。これは昔、三次刑務所で服役中に死亡し、身寄りがいなくて引き取り手のいなかった「無縁仏」を二つの墓にまとめたものです。

【妙栄寺(みょうえいじ)】 日蓮宗。慶安3年(1650)三次藩初代藩主浅野長治が実母寿正院(じゅしょういん/実名お岩)のために建てたお寺で、本堂裏の小高い所に「寿正院殿妙栄日信尊尼」と刻む高さが3メートルもある立派な彼女の墓があり、お寺の名も彼女の法名からとったものです。
 寿正院ははじめ京都の羽林家(うりんけ)という高い家柄の公家(くげ)、川鰭基久(かわばたもとひさ)に嫁ぎ一子基秀をもうけましたが、夫基久の死後京都にいた浅野長晟(ながあきら)の側室となり長治を生みました。長晟が京都を去った後は、わが子川鰭基秀の元に身を寄せていました。その後も三次浅野家と川鰭家とは親戚付き合いが続いたようで、長治の娘鶴姫(阿久利姫(あぐりひめ)の妹)は川鰭家へ嫁ぎ、長治も川鰭家の娘三姫を養女としています。
 寿正院の墓の右下に「秋月院殿恵性日感大姉」と刻む秋月院(実名お弁)の墓があります。彼女は三次藩三代藩主浅野長澄の側室で、6人の子をもうけましたが、すべて10歳までに死亡しており、薄幸であった彼女の悲しみが偲ばれます。長澄の跡目は秋月院の生んだ長経(ながつね)が継ぎましたが、彼が9歳で死んだため同じ彼女の子で、弟の長寔(ながただ)が第5代藩主となりました。しかし彼もその翌年5歳で死亡したため、三次浅野家は享保5年(1720)断絶し広島本藩に合併されました。


・・・つづく

基本情報

名称株式会社 菁文社
フリガナ株式会社 菁文社
住所728-0023 三次市東酒屋町306-46
アクセス国道375号線三次工業団地口交差点より北へ850m
電話番号0824-62-3057
ファックス番号0824-62-5337
メールアドレスgeibigrf62-3057@seibunsha-f.com
営業時間8:30~17:30
定休日土・日曜、祝日
駐車場あり
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