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三次の地域情報サイト「まいぷれ」三次市

連載:みよし街並み歴史散歩 その1

株式会社 菁文社

 弊社が2007年(平成19年)に発刊した「みよし街並み歴史散歩(三次・十日市・
八次・酒屋編)」から一コラムづつ連載します。三次の再発見があるかもしれませ
ん。
 なお、三次市は周辺町村との合併以後大きく変わりつつあります。発刊時期とのず
れがあることはご了承ください。
 第1部【三次町地区】・・・三次本通りを歩く
 中世領主の三吉氏が畠敷から上里村(三次)の比熊山へ移ったころ、同じ畠敷から定期市の五日市もやって来ました。商人たちは西城川の河畔に商業の神・恵比須(胡子)神社を勧請しました。おそらく領主と町人が、共に市場の繁盛と町の繁栄を祈って祀ったものでしょう。この神社は地元では親しみを込めて“えべっさん”と呼ばれています。
 旭堤防が南へ伸びるに従い、この神社を起点にして五日市の町並みが南へ向かって発展しました。これが今日の三次本通りであり、江戸時代には雲石街道を兼ねていました。本通りの中でも恵比須神社の辺りを「本町(ほんまち)」といったのは町の発祥の地という意味が込められていたのでしょう。住吉神社までは、およそ六三〇メートルあります。明治、大正、昭和そして戦後の四〇年代までは老舗が軒を並べ備北地方で最大の商店街でした。しかし今はその面影はほとんど見られません。しかし再生のための「歴みち事業」がすすめられています。今回の歴史散歩は南側から歩いてみましょう。

【旧増田酒店と卯建(うだつ)】 本通りへ入ってすぐ左側、旧増田酒店があります。増田家は江戸時代からの商家で、明治の初めからは酒造業を営みながら、酒の小売店も経営していました。醸造蔵は後に太歳町に移り、銘柄は「万寿の井」です。
 この増田家の家造りには立派な卯建が残されています。
 卯建とは、妻壁に取り付けるもので「卯」の文字に似ていることから付けられた名前といわれています。その機能は火災時の類焼を避けるのが目的ですが、資産家と格式のシンボルでもありました。さまざまな種類があります。妻壁を屋根より高く突き出し、小屋根を付けたものが「本卯建(ほんうだつ)」。妻壁から小屋根付きの小壁を張り出し、庇(ひさし)屋根の上に乗せたものを「袖卯建(そでうだつ)」。妻壁から単に小壁を張り出したものを「袖壁(そでかべ)」といい、これらを総称して卯建と呼ばれています。増田家のものは、これらの総てが揃っています。これは中国地方ではあまり見られない遺構であり、三次市が誇れる大切な文化財です。
 本通りから太歳町へかけては袖壁や袖卯建が残っている古い家が多く見られます。また、通りの各所には「卯建のにあう町」という標示板を目にします。三次町は卯建を保護保存して歴史的な町並み保存のシンボルにしようという取り組みがなされています。
 増田家の南隣りは旧浅田薬店で、昭和四〇年代まで営業していました。多くの店員を抱え、薬の小売と大規模な卸商を営んでいました。二階の大看板が当時を物語っています。このような小売を兼ねた卸問屋は本通りのお店のおよそ四割を占め、三次町の商業の大きな特色でした。
 最近、この浅田薬店の建物は改造されて「みよし本通り人形館」に生まれ変わりました。三次人形が主で、古いものから現代のものまで展示し、それに辻村寿三郎(つじむらじゅさぶろう)氏が寄贈の人形も飾られています(土、日、祝日開館 午前一〇時〜午後四時)。
 裏手にある法音寺は日蓮宗の古刹(こさつ)で、天正一一年(一五八三)、櫃田村(ひつたむら)(君田町櫃田)からこの地に移って来ました。照林坊よりも二〇年も早いのです。 ・・・つづく

基本情報

名称株式会社 菁文社
フリガナ株式会社 菁文社
住所728-0023 三次市東酒屋町306-46
アクセス国道375号線三次工業団地口交差点より北へ850m
電話番号0824-62-3057
ファックス番号0824-62-5337
メールアドレスgeibigrf62-3057@seibunsha-f.com
営業時間8:30~17:30
定休日土・日曜、祝日
駐車場あり
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