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新連載:ふるさとの峠と街道 その3-1

株式会社 菁文社

「ふるさとの峠と街道」は、第1部 ふるさとの街道、第2部 ふるとさの峠 として2部構成でお届けします。
 第1部「ふるさとの峠」は、昭和54年(1979)5月から「げいびグラフ」誌上に“峠を語る”シリーズとして21回にわたって連載したものです。今では交通機関の多様化とこれに伴う土木技術の発達により大巾な改修がすすみ、峠は旧来の峠としての機能を失って、峠の存在すら忘れ去られています。
   このたび、あえて連載当時の記述に修正を加えることなく取材当時の内容を再掲し峠を歴史の証として伝えることにしました。



         【上根峠(かみねとうげ/高田郡八千代町)その①】
             ― 移り変わる峠越え ―

 ダンプカーが次々に山のように土石を運んで、トンネルから出て来る。耳を澄ますと、地底から削岩機やパワーショベルの音も聞こえて来る。――可部の大林地区から山腹沿いに、トンネルと橋によって八千代町上根と結ぶ“上根バイパス”の工事は、今その最中である。
 上根峠は、まもなく大きく変わろうとしている。
         *
 上根の峠越えの起源は、いつ頃からか明らかではない。寛永10年(1633)、雲石街道として正式に広島藩が脇街道に指定した道にあるが、おそらくそれ以前、慶長年間毛利氏の広島移住以降は、この峠を防備の要害地とする必要もなくなり、備北地方への最短ルートとして、自由に庶民に利用されていたであろう(『高田郡史』)。
「坂あり、登り八丁険なり」と『芸藩通志』は記している。広島方面から根の谷川沿いに登り、坂根橋から一直線に登る急峻な峠道は、江戸時代この街道屈指の難所の一つであった。同じ難所でも入江開地(吉田町入江)や犬飼平(いぬかいびら/三次市秋町)は、既に江戸時代から開削の工事が施されたが、上根峠はついに手がつけられなかった。
  〽馬が物言うた上根の坂で、上りちぢめて下りのべ…(馬子唄)
 馬も人もあえぐ難所であったという。
 上根峠には霧切谷(きりきりだに)という言葉が残っている。古くから使われたらしい。中国山地特有の朝霧は、この峠付近で消えてなくなる。霧が切れる谷という意味である。断層地形による極端な水系の変化により、このような現象が現れるのであろう。
 土地の人も、「霧のある日に可部方面を見て、それから吉田方面を見れば、別な世界を見るようだ」と話してくれた。おそらく、歩いて峠を越えて旅をした昔の人も、峠の難所を過ぎて一息し、異境の地へ入る特異な気持ちにひたったことであろう。
         *
 明治17年(1884)頃から新道の敷設工事が始まった。工事中の難工事は、なんといっても上根峠であった。
「旧道を改修しようというので、測量を始めて第一回に道切りをしましたのが、明治19年だったと思います。これは3町ぐらいやって止め、さらに2回、3回とやりましたが、ようやく細田氏宅までやって止め、とうとう4回目に始めたのが今の道路でした。
 この工事は22年に始めました。この道路ができねば、県道は中筋へとるというので、それでは吉田と可部が大打撃だから、是が非でもやろうというので、両町が応援しました。吉田からは四斗樽を積んで来て、上根の市へ寺の幕を張り、可部では、この前の神社の境内に四斗樽を据え、労力奉仕の村民の汲み飲みにさせたこともありました。その頃の人夫賃は八銭でした。(中略)賃金は銅貨が要るので、カマスへ入れて来ていたのを記憶しております」
 当時から根の谷に住んでいた谷本氏は、以上のような想い出を『高田郡史』に語っておられる。
 幅員3.6メートルの新道は、明治23年(1890)に完成し、峠は生まれかわった。26年には県道になり、引続いて敷石工事が行われ、これも明治35年には完成した。約1キロにおよぶ敷石の道は、当時、神奈川県の箱根峠とこの峠だけであったという。それでも屈曲37カ所、上下の高低差は66メートルもあり、依然として県道中の難所であることに変わりはなかった。
 峠が最も栄えたのは、明治の末期から大正にかけてである。峠の頂上付近に住む神殿県一さん(85)は、当時をなつかしそうに語ってくれた。
「上根市(いち)には旅館や飲食店が軒を並べ、車夫や馬子のたまりには大勢がつめかけ混雑した。馬子が鳴らす客馬車のラッパの音が谷に響き、車の鉄輪が敷石の上で大きな音をたてた。荷物を運ぶ「三次車(みよしぐるま)」は馬車で、「山県車(やまがたぐるま)」は大八車であった。荷は主に米と炭であった。坂の途中の馬頭観音は、馬子や車夫の信仰厚く、祭日さえあった」
という。
 大正4年(1915)、芸備鉄道が広島と三次を結び、乗合自動車やトラックの時代に入ると、峠の様相は次第に衰えて行った。
 昭和8年(1933)、古里への道をこれにとったアララギ派の歌人中村憲吉は

  われ久に通らざりけり旧県道峠の宿はすたれけるかも

と詠んでいる。



◆次回は『上根峠』その②を紹介します。



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基本情報

名称株式会社 菁文社
フリガナ株式会社 菁文社
住所728-0023 三次市東酒屋町306-46
アクセス国道375号線三次工業団地口交差点より北へ850m
電話番号0824-62-3057
ファックス番号0824-62-5337
メールアドレスgeibigrf62-3057@seibunsha-f.com
営業時間8:30~17:30
定休日土・日曜、祝日
駐車場あり
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