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三次の地域情報サイト「まいぷれ」三次市

連載:みよし街並み歴史散歩 その25

株式会社 菁文社

 弊社が2007年(平成19年)に発刊した「みよし街並み歴史散歩(三次・十日市・八次・酒屋 編)から一コラムづつ連載します。
三次の再発見があるかもしれません。
 なお、三次市は周辺町村との合併以後大きく変わりつつあります。発刊時期とのずれがあることはご了承ください。
  この「みよし街並み歴史散歩」は、B6判の単行本です。お求めは小社 TEL(0824)62 3057 または 三次市内の書店へご注文ください。

  稲生武太夫の妖怪退治物語

 三次生まれの歴史上の人物で、世間によくその名が知られた人をあげるとすれば、もっとも有名なのが忠臣蔵の阿久利(あぐり)姫(のちの瑤泉院/ようぜいいん)でしょう。さらにもう一人あげるとすれば妖怪を退治した稲生武太夫(いのうぶだゆう)ではないでしょうか。2006年8月に「世界妖怪会議」が三次で開催されたのは、三次町が稲生武太夫が妖怪を退治した舞台になった町だからです。近年の妖怪ブームによって、彼の知名度は一層高まっているようです。

【物語のはじまり】 書物によって細かいところは多少異なりますが、物語のあらすじはつぎのようなものです。
 ときは江戸時代半ばの寛延2年(1749)5月末の夜のこと、稲生武太夫がまだ平太郎と名乗っていた15歳のときのことです。少年平太郎は隣家にすむ布野(三次市布野町)出身の三井権八(みついごんぱち)(30歳)と肝(きも)だめしをすることになりました。権八は紀州徳川家へ抱えられていたこともある力自慢の相撲取りで、三次で若者に稽古をつけている者でした。
 2人で百物語(※)をした後、平太郎は丑三(うしみつ/午前2時)のころ雨の中、真っ暗な比熊山へ1人で登って帰りました。比熊山は関ヶ原の戦いで滅んだ悲劇の領主三吉氏が最後に本拠(ほんきょ)としていた山城跡で、江戸時代にも人びとが畏(おそ)れをもってみていた山です。その神聖とされていた山へ登ったせいでしょうか、七月になると平太郎の屋敷へ夜昼となく妖怪が姿を現すようになりました。

(※)「百物語」 怪談会の一形式。夜数人が集まって、行灯(あんどん)に百本の灯心を入れて怪談を語り合い、一話ごとに一灯を消し、語りおわって真っ暗になった時に妖怪が現れるとされた遊び(『広辞苑』)

【妖怪連日参上】 旧暦の7月といえば、あの世から霊魂が帰ってくるという盆月です。その朔日(ついたち)、平太郎の家では突然火の気のないところで障子が燃え、畳が天井に舞い上がるという奇怪な出来事がありましたが、それが日がたつにつれてだんだんエスカレートして、地震のように家が揺らぐ、大老婆の顔が戸口を塞(ふさ)ぐ、庭石が人の死体となる、女の生首が部屋中を飛び回って平太郎の顔をなめる、坊主の頭が割れて中から赤ん坊が大勢出て平太郎を襲う、抜き身の刀が部屋中を飛びまわるなど、30日の間手をかえ品をかえ妖怪が出てきました。
 このことは三次町中の大評判になり、夜な夜な平太郎の家に多くの見物人が押しかけてくるようになったので、お役所から「平太郎の家のまわりに集まってはならない」という禁止のお触れが出るほどでした。初めは加勢だといって詰めて、西江寺から薬師如来の御影をいただいて床の間に安置してくれたりしていた親戚・友人も、あまりの恐ろしさに姿をみせなくなりました。しかし、平太郎一人は平然として屈しませんでした。そして7月の晦日(みそか)、妖怪の正体山ん本(さんもと)五郎左衛門が現れ、平太郎の豪胆さを褒めたたえ「これから後、何ぞあればこの木槌(きづち)で柱を叩いて下されば、ただちに駆けつけます」といって木槌を置いて去っていきました。
 この物語に出てくる妖怪変化は50種以上あり、武太夫が独自に考え出した妖怪もありますが、どろどろした陰湿なところが少なく、おおらかさがあるのが特長です。

・・・つづく

基本情報

名称株式会社 菁文社
フリガナ株式会社 菁文社
住所728-0023 三次市東酒屋町306-46
アクセス国道375号線三次工業団地口交差点より北へ850m
電話番号0824-62-3057
ファックス番号0824-62-5337
メールアドレスgeibigrf62-3057@seibunsha-f.com
営業時間8:30~17:30
定休日土・日曜、祝日
駐車場あり
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