ふるさとの峠と街道 雲石街道(赤名越) ②-その2
株式会社 菁文社
三次太才町に残る「道しるべ」
「ふるさとの峠と街道」は、第1部 ふるさとの街道、第2部 ふるとさの峠 として2部構成でお届けします。
第1部「ふるさとの峠」は、昭和54年(1979)5月から「げいびグラフ」誌上に“峠を語る”シリーズとして21回にわたって連載したものです。今では交通機関の多様化とこれに伴う土木技術の発達により大巾な改修がすすみ、峠は旧来の峠としての機能を失って、峠の存在すら忘れ去られています。
このたび、あえて連載当時の記述に修正を加えることなく取材当時の内容を再掲し峠を歴史の証として伝えることにしました。
【街道編 雲石街道(赤名越) ②-その2】
― 三次から赤名 ―
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明治20年(1887)、赤名峠は巾三間の新しい県道として改修されたのにともなって、赤名越えの荷物輸送の主役として登場したのが荷車である。初めは車に1本の棒をつけた押し車であったが、ほどなく引き車になった。明治40年頃、布野村だけで赤名や三次への荷車曳きに従事した人が200人もいたという。
『荷車の歌』(山代巴著)によると「夜半の12時に起きて仕度をして、布野までは夜の間に行き、三次の町へ12時すぎに入り、問屋で勘定してもらって、お茶をよばれていそいで帰っても、布野の町の出はずれでは日が暮れる。(横谷の)家に辿りつくのはいつも九時を過ぎていた」というきつい仕事で、元気な男でも2日働いて1日休まねば体がもたなかったという。山の地肌を削った赤名峠には、荷物を背に負ったり、車を曳いた人々の額からポタポタ落ちたであろう汗がしみ込み、ふみしめられている。
この頃が布野宿の最盛期で、大正5年(1916)12月現在布野村には宿屋が16軒、飲食店が15軒、それに荷車の轍(わだち)にかかわったのであろう鍛冶屋が9軒もあった(「事務報告」)という、現在では信じられない数字からもうかがえる。
山をめぐり疲れて日暮がた隣り国の出雲へくだる
うしろより町への用を言ひしかど霧にかくれて荷ぐるま行くも
君を送り国のさかひの山越えのふかき峡路にわかれけるかも
中村憲吉
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大正時代も半ばになると新しい交通機関として、始発点から目的地をノンストップで結ぶ自動車(トラック)が登場してきたため、中継基地としての布野宿の役割が衰退したことは否めない。
戦後モータリゼーションの進行にともなって、関係21カ町村の官公庁や企業代表が布野村へ集まって、冬の積雪のためしばしば途絶する赤名峠をトンネルでつなごうという「赤名峠隧道工事既成同盟」(会長三浦正広島県会議員)が結成されたのは、昭和26年(1951)のことであった。以来熱心な運動の結果、赤名トンネル開通をはじめ20カ所におよぶカーブをなくし、国道54号線は大幅に改良されて、広島~松江間は距離で11キロ、時間で2時間半も短縮し、中国地方を南北に結ぶ一大動脈として昔の面目を一新している。(藤村耕市)
◆次回は雲石街道(阿井越) を紹介します。
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基本情報
名称 | 株式会社 菁文社 |
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フリガナ | 株式会社 菁文社 |
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住所 | 728-0023 三次市東酒屋町306-46 |
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アクセス | 国道375号線三次工業団地口交差点より北へ850m |
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電話番号 | 0824-62-3057 |
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ファックス番号 | 0824-62-5337 |
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メールアドレス | geibigrf62-3057@seibunsha-f.com |
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営業時間 | 8:30~17:30 |
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定休日 | 土・日曜、祝日 |
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駐車場 | あり |
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