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三次の地域情報サイト「まいぷれ」三次市

連載:みよし街並み歴史散歩 その50

株式会社 菁文社

 弊社が2007年(平成19年)に発刊した「みよし街並み歴史散歩(三次・十日市・八次・酒屋 編)から一コラムづつ連載します。
三次の再発見があるかもしれません。
 なお、三次市は周辺町村との合併以後大きく変わりつつあります。発刊時期とのずれがあることはご了承ください。
  この「みよし街並み歴史散歩」は、B6判の単行本です。お求めは小社 TEL(0824)62 3057 または 三次市内の書店へご注文ください。

【松ヶ迫窯跡】は四隅突出型墳丘墓の東側、約100メートルの東向き斜面にあります。古墳時代後期(約1450年前)に須恵器を焼くために造られたものです。二つあり、通称一号窯は、全長9.2メートルの段の無い構造の登窯(のぼりがま)で、造られた当初は斜面の山肌をえぐり抜いた地下式構造でしたが、その後、天井が落下したため半地下式に造り替えられています。二号窯は天井部を粘土で固めた半地下式の登窯で、全長九の段の無い構造です。窯の焚き口に近い前庭部と呼ばれる所に柱穴が見つかり、作業用の小屋が設けられていたものと思われます。
 以上が工業団地内で発掘調査された遺跡のほんの一部の紹介です。旧石器から古墳時代の終わりころまでの、さまざまな遺跡や遺物が同一の場所で発見されました。このことは三次盆地の原始・古代史を知る上で大変貴重な発見でした。しかし一部が保存公開されているだけです。外は跡形もなく破壊されて工業団地となりました。
 矢谷墳丘墓から北や北西に目を向けると、遠く比叡尾山城跡(ひえびやまじょうあと)や、比熊山城跡(ひぐまやまじょうあと)が一望できます。比叡尾山のふもとには中世、三吉氏の城下町として栄えた畠敷町が、比熊山の麓には江戸時代に尾関氏や三次浅野藩五万石の城下町、後に在郷町・宿場町として発展した三次町や十日市町があります。三次の町の発展の移り変わりを考えたとき、古代には四隅突出型墳丘墓や三次郡衙(みよしぐんが)のあった酒屋地区が、三次盆地の中心であったわけです、そして現代は工業団地や公立病院、美術館、三次ワイナリー、それに大型スーパーの店舗などが立ち並ぶ様子は、再び酒屋地区に中心が移動しつつある感じがします。この場所に佇(た)つ時、いつも輪廻転生(りんねてんしょう)という言葉を思うのは筆者の勝手な思い込みでしょうか。

【マツダテストコース】 工業団地を出て国道375号を西に進み、ワインロードを左に見て、さらに進むと右側に自動車メーカーのマツダの自動車試験場であるテストコースの入り口がみえます。昭和40年(1965)の完成で、一周が4.3キロメートルの外周コースや1.8キロメートルの水平直線コース、その内部には新開発の走行テストに必要ないろいろな試験場があります。この会社が世界に先駆けて開発したロータリーエンジンを搭載した「マツダコスモ」車が、最初にテストされたのがこのテストコースでした。なお昭和49年(1974)からはエンジンの組立工場も操業しています。
 これらの施設の造成でも多くの埋蔵遺跡が発掘されました。
【下本谷郡衙遺跡(県史跡)】 西酒屋町の丘陵上に古代三次郡の郡衙跡(ぐんがあと/郡役所)が発見されました。昭和50年(1975)、中国自動車道の三次インターチェンジに接続する県道の改修工事の時のことです。広島県で初の郡衙跡として又全国的にみても完全な形の郡衙として発掘されたのは珍しいことでした。残念ながら全体の保存ができず、インターを出てすぐの信号機の左側の丘に、ごく一部が保存されています。
 発掘当初、人がスッポリ入っても十分に余裕のある穴が規則正しく並んでいて、普通の建物の穴としては大き過ぎると思われました。発掘が進むにつれて建物を囲む柵の柱穴も見つかりました。遺構の規模は東西約54メートル、南北約114メートルの「コ」の文字形の柵内に、郡司(ぐんじ)が政務を行った正殿である庁屋(ちょうのや)や、両側にならぶ二対一組の細長い脇殿(向屋/むかいのや)と、正殿の北側には仕事で往来する上級役人が宿泊した館も建てられていました。柵の回りには郡内から租税として徴収した稲を収めた正倉(しょうそう)と呼ばれた建物が数棟建てられていました。さらに見つかった遺物から、鍛冶工房の存在や役人が使用した須恵器の坏(つき)を転用した硯(すずり)などもありました。
 おそらく正殿の広場ではこれら役人と納税のため、郡衙を訪れた村人の儀式や集会などが執(と)り行われたことでしょう。
 この位置で郡衙跡が見つかったことは、奈良時代の後半から平安時代にかけて、三次郡の中心がこの西酒屋町の辺りにあったと推察されます。
 もし遺跡の全体が保存されていたら、三次盆地の古代史の仕組みや移り変わりの解明が大きく進んでいたことでしょう。返す返すも残念です。
 この郡衙遺跡から西方へ2.5キロメートルの江の川の左岸に船所(ふねぞ)という所があります。郡衙に関連して河川交通の管理をする施設・船所(ふなどころ)が設けられていたのかも知れません。
 郡衙遺跡の近くにあるお寺は源光寺(げんこうじ)で、浄土真宗本願寺派です。慶長のころ覚善寺(十日市中)第二世覚証の次男慈敬が創め、承応3年(1654)に堂宇を建立しています。
【下本谷旧石器遺跡】 郡衙遺跡から山道を北へ約200メートル歩くと、旧石器の遺物が見つかった下本谷遺跡(しもほんたにいせき)に至ります。昭和50年(1975)から数回の発掘調査でナイフ状石器や剥片(はくへん)、石核(せっかく)などで、流紋岩(りゅうもんがん)という堅い岩石を打ち砕いて作った道具や残りの部分です。これらが見つかった地層は鹿児島県の桜島近くの姶良(あいら)火山(現在は錦江(きんこう)湾)が噴火し、その火山灰が日本列島のほぼ全域に積った地層で、その年代は21000年〜2000年前といわれています。これらの石器は県内で最も古い遺跡、遺物となります。
 今は、三次市の上水道施設となり跡かたもありません。
 元JA酒屋支所の所の交差点を左にとります。坂道の左側一帯の山林は太平洋戦争の末期、陸軍の兵器学校が広島から疎開していた所です。米軍の原爆投下で授業の開始には至らず、昭和20年(1945)9月下旬には施設は閉鎖され、その後、建物群の一部は地元の集会所などに利用するために村内各地へ移設されました。
 坂道を上りきると再び水田風景の開けた末元地区へ出ます。



【写真 東酒屋界隈(航空写真)】

◇   ◇   ◇

・・・つづく

基本情報

名称株式会社 菁文社
フリガナ株式会社 菁文社
住所728-0023 三次市東酒屋町306-46
アクセス国道375号線三次工業団地口交差点より北へ850m
電話番号0824-62-3057
ファックス番号0824-62-5337
メールアドレスgeibigrf62-3057@seibunsha-f.com
営業時間8:30~17:30
定休日土・日曜、祝日
駐車場あり
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