新連載:ふるさとの峠と街道 その17-②
株式会社 菁文社
「ふるさとの峠と街道」は、第1部 ふるさとの街道、第2部 ふるとさの峠 として2部構成でお届けします。
第1部「ふるさとの峠」は、昭和54年(1979)5月から「げいびグラフ」誌上に“峠を語る”シリーズとして21回にわたって連載したものです。今では交通機関の多様化とこれに伴う土木技術の発達により大巾な改修がすすみ、峠は旧来の峠としての機能を失って、峠の存在すら忘れ去られています。
このたび、あえて連載当時の記述に修正を加えることなく取材当時の内容を再掲し峠を歴史の証として伝えることにしました。
【瀬谷峠(せたにだお/三次市)その②】
― 地方史のシンボルとして ―
大正4年(1915)芸備鉄道(現=芸備線)が峠に敷設された。県道と平行に峠の東側の山を深く切り通した。そのため松ヶ迫堤の灌漑用水路は用水橋によって線路上を越え、両村へ分配されるようになり、峠の景観は一変した。
交通機関の主役が自動車や鉄道の時代へ移る画期的な出来ごとであった。
鉄道開通の日、村民は峠に汽車を迎えに出た。その日の思い出を地元の古老は「遠くから黒い鉄の塊が、白い蒸気をはきながら、大きな音をたててやって来た」と、恐怖にも似た驚きで峠に鉄道時代を迎えたことを語ってくれた。
歴史はやがて戦争の時代に入る。青河地区の多くの出征兵士は、志和地駅で乗車のため、この峠まで村民に送られて最後の別れの辞を述べた。用水橋の石垣の上がその場所であった。そして、彼らの多くは、再びこの峠へ帰って来ることがなかった。
戦後、県道は昭和37年(1962)に2級国道広島 ― 松江線、翌年1級国道54号線に昇格したが、峠の様相に根本的な変化はなかった。やがて、国道の全面改修が昭和40年(1965)頃から始まった。
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昭和45年(1970)、国道の改修が完了する。幅員は拡張され、2車線に歩道をつけた舗装道路となった。峠の頂上付近は、西側の山がさらに削られて水田はなくなり、僅かに残っていた旧道もほとんど姿を消すことになった。
峠の南側(下志和地側)には旧道時代から古堂に六地蔵があった。しかし、改修工事でその居場所を失い、1500メートルも離れた郷中の全く別のところへ移された。
マイカー時代になった。ドライブインも2軒、それに頂上付近には民家や建設会社の資材置場もでき、広告看板も林立している。さらに峠の南側は、登坂二車線の工事も進められている。峠はさらに新しい顔を装うとしている。
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峠とは、境界性と遮断性をその本質とする。しかし、前者は行政区画の整理統合によってその意義を変化させる。町村合併などが行われると、その持つ意義は低下する。後者は交通機関の発展や道路・トンネル・橋梁工事等の技術の発達によって克服される。瀬谷峠は、そのような時代の進展によって、峠のもつ特性を失ったのだ。
それにしても、この峠は時代性をよく現した峠である。“かごたてば”から“登坂二車線”まで、まさに時代のシンボルのような峠であると思えてならない。
(昭和60年5月 米丸嘉一)
写真【峠道南側。舗装されてはいるがカーブが多い】
◆次回は草ノ峠を紹介します。
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