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新連載:ふるさとの峠と街道 その20-①

株式会社 菁文社

県道上の分水嶺、標高600m。「新連載:ふるさとの峠と街道 その20-①」

県道上の分水嶺、標高600m。

「ふるさとの峠と街道」は、第1部 ふるさとの街道、第2部 ふるとさの峠 として2部構成でお届けします。
 第1部「ふるさとの峠」は、昭和54年(1979)5月から「げいびグラフ」誌上に“峠を語る”シリーズとして21回にわたって連載したものです。今では交通機関の多様化とこれに伴う土木技術の発達により大巾な改修がすすみ、峠は旧来の峠としての機能を失って、峠の存在すら忘れ去られています。
   このたび、あえて連載当時の記述に修正を加えることなく取材当時の内容を再掲し峠を歴史の証として伝えることにしました。



【中山峠(なかやまとうげ/庄原市)その①】

― 変遷を綴る峠道 ―


 乗用車で芸備線東城駅から帝釈を経由して庄原方面に約35分、また逆に備後庄原駅から本村を経由して東城方面に約25分行ったところ、現在庄原市と東城町との境になっている標高600メートルの峠が中山峠である。東城町全域が瀬戸内海にそそぐ高梁川水域、庄原市全域が日本海にそそぐ江の川水域であることから、この峠は両水域の分水嶺でもある。
 この峠を通る県道庄原 ― 東城線(県道23号線)は、江戸末期の『芸藩通志』に備中故路(びっちゅうこじ)とか、吉備(きび)の中路(なかみち)と書かれている街道であるが、同書に「備中故路、-中略-もとは正路なりしが、奴可郡未渡村、継場やみたればにや、今は西城通りをもって正路とすれど、駅夫を用ひざるものは此路をも往来するなり」また「昔は三上郡庄原駅より未渡村通り往還せしと見えて里堠(りこう/一里塚)もあれど、未渡村、継場やみたればにや、西城通り東城に至る、此辺は新路なれば福代村以上、里堠なし」とあるように、江戸末期には正路(駅制にもとづく公用道路)ではなく故路(もとの正路)となっている。この理由としては、冬季の積雪による中山峠の通行不可能な期間が長いということのほか、奴可郡の代官所が西城に置かれたことにより、この道を公用で利用することがなくなり、未渡の人馬継場が廃止されたことによるものと考えられる。
 庄原から西城、保田、川鳥を経由して東城、福代に至る道は備中新見路と称し、江戸末期正路となっていた。しかし、一般の旅人、特に遠方からの旅人が東城・庄原間を往復するときは、西城まわりより近距離の備中故路を利用したはずである。庄原と東城とはもともと経済圏が違い、昔は東城にはほとんどの物資が福山方面からもたらされ、一部が西城から入っていた。従って、この峠を利用しての物資の輸送はあまりなかったのではないかと考えられる。今では大半が県境を越えて新見から運ばれている。昭和38年(1963)の豪雪の際、中山峠の除雪が最後まで行われなかったのも、こうした状況があるからであろう。
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 地元の人たちの口から「中山三里」ということばを聞く。これは帝釈始終(ししゅう)の雨連(なめつら)の奥から本村の吉備谷を降りたところまでの十数曲りの中山峠全体をさすことばであろうが、実際は三里の半分足らずの約5キロの行程しかない。「三里」というのはたんに長いという意味か、あるいは一人で淋しくこわごわと峠を越すと倍以上の長さを感じたからであろうか。昔は道幅も狭く、樹が両側から覆いかぶさるようになっていて薄暗く、大変淋しかったということである。
 中山という名称は本村側から呼んだ山の名で、この峠の本村側の谷を吉備谷と称し、川を細谷川と呼んでいることから、備前・備中・備後を合わせた吉備全体の総鎮守である備中の吉備津神社の鎮座する、吉備の中山(ふもとの川を細谷川という)を想定して中山の名称をつけたものであろう。とすれば、谷のどこかに吉備津の小祠が存在していることであろう。


写真【県道上の分水嶺、標高600m。中国自動車道開通後は大型車の通行がめっきり減った。】






◆次回は中山峠その②を紹介します。



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基本情報

名称株式会社 菁文社
フリガナ株式会社 菁文社
住所728-0023 三次市東酒屋町306-46
アクセス国道375号線三次工業団地口交差点より北へ850m
電話番号0824-62-3057
ファックス番号0824-62-5337
メールアドレスgeibigrf62-3057@seibunsha-f.com
営業時間8:30~17:30
定休日土・日曜、祝日
駐車場あり
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