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新連載:ふるさとの峠と街道 その14-②

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新連載:ふるさとの峠と街道 その14-②
「ふるさとの峠と街道」は、第1部 ふるさとの街道、第2部 ふるとさの峠 として2部構成でお届けします。
 第1部「ふるさとの峠」は、昭和54年(1979)5月から「げいびグラフ」誌上に“峠を語る”シリーズとして21回にわたって連載したものです。今では交通機関の多様化とこれに伴う土木技術の発達により大巾な改修がすすみ、峠は旧来の峠としての機能を失って、峠の存在すら忘れ去られています。
   このたび、あえて連載当時の記述に修正を加えることなく取材当時の内容を再掲し峠を歴史の証として伝えることにしました。



【鳥越峠(とりごえとうげ/世羅郡甲山町)その②】

― 信仰心を高めた峠 ―

 江戸時代になると、幕府の政策によって参勤交代や巡検使の制が設けられ、大名行列や役人の往来が多くなったので、各藩とも競って道路の改修、整備に力を入れるようになった。幅員の拡張や路面の均整はもとより、一里塚(里堠)を設けたり、辻堂を建てたりして旅人の利便を図り、宿駅を定めて大名や役人の宿泊、貨物の輸送などに便宜を与えるようになった。
 この頃、鳥越の峠を通る道は山陰との連絡も頻繁になって、石見街道(出雲街道)と呼ばれた。甲山町(こうざんまち)は宿駅に指定され、鳥越の峠には一里塚が設けられたことが『芸藩通志』に載せられている。こうして石見街道は人馬の往来が盛んになり、備北に産する砂鉄や石見大森銀山から出荷される銀などを輸送し、尾道からは海産物を運び帰った。
 往来が頻繁だったこの峠は、眺望の開けた明るい所で茶店の一軒もあったように思えるかも知れない。しかし実は上り下り約6~700ートルの間には耕地もなく、人家とて一戸もない山道なので、文政(1818―1830)の頃、神辺に廉塾を経営していた菅茶山が甲山へ来遊する途中、鳥越の峠で詠んだ五言絶句の詩
雑樹夾谿昏
帰雲抱石屯
鳥身看不見
声大似人言
 とあるように、樹木の生い繁る山道なのである。追剥(おいはぎ)が出たとか、狐に化かされたというような話は、いろいろ語り伝えられているようである。
         *
 明治の世になると、各街道とも相次いで改良され、石見街道も明治17年から初代広島県知事千田貞暁によって「山陰陽交通道路」と銘うって大改修が行われ、沿道村々の適任者を選んで工事取締人に委嘱し、従業員の募集や工事の監督などに当たらせたが、鳥越の峠は難工事だったので、大阪の土木業者に請卸したという事である。時あたかも千田知事は宇品築港という大工事中であり、その方面の資金調達に苦慮していたので、当然こちらの工事費にも苦労したらしく、地方の有権者に対して大方の寄付を募ったようである。
 荷車や荷馬車がこの改修道路に現れたのは大正時代に入ってからである。続いて人力車や客馬車も人を乗せて走るようになり、鳥越の峠も目まぐるしい世の変転に驚いたようである。やがて、昭和時代になると自動車が走りだし、大東亜戦争後は急速に道路も近代化され、この道も国道184号線と名づけられ、路面は完全舗装となり、長年交通の難所とされていた鳥越の峠もその悪名を返上し、景観も一新した。
地方の老人たちが忘れ得ぬ頂上の極楽水も、道路の近代的改修の影響で湧水が涸れて荒廃し、今は顧みる人もいなくなった。石仏は少し位置を移動して道路側に祀られているが、この時代の変遷をどんな感慨をもって眺めていらっしゃる事であろうか。(昭和59年10月 門原粂夫)
        



写真【山中を走る鳥越峠。赤松に囲まれたこの山道も、近いうち2車線の快適な峠に変身する。】
 


◆次回は大仙峠を紹介します。



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