地元暮らしをちょっぴり楽しくするようなオリジナル情報なら、三次の地域情報サイト「まいぷれ」!
文字サイズ文字を小さくする文字を大きくする

三次の地域情報サイト「まいぷれ」三次市

新連載:ふるさとの峠と街道 その5-2

株式会社 菁文社

「ふるさとの峠と街道」は、第1部 ふるさとの街道、第2部 ふるとさの峠 として2部構成でお届けします。
 第1部「ふるさとの峠」は、昭和54年(1979)5月から「げいびグラフ」誌上に“峠を語る”シリーズとして21回にわたって連載したものです。今では交通機関の多様化とこれに伴う土木技術の発達により大巾な改修がすすみ、峠は旧来の峠としての機能を失って、峠の存在すら忘れ去られています。
   このたび、あえて連載当時の記述に修正を加えることなく取材当時の内容を再掲し峠を歴史の証として伝えることにしました。



         【馬通峠(まどうしとうげ/双三郡三和町)その5-②】
― 三代のプロフィール ―

 馬通峠の昔の道は、現在の峠の頂上附近では約1キロ南西にそれていた。羽出庭側は今の県道を池原(いけばら)の白岩氏宅附近から西へ入り、伊藤氏宅の横から雌鳥(めんどり)山の北側の鞍部に出、長屋側は国有林の桧林をぬけて谷川に沿って下流へ下り、現在の住安氏宅の上で小川を横切るルートであったという。今歩いても昔の面影は残っていない。旧道の跡と思われるところを探すのがやっとであった。
 享保19年(1734)5月17日、この峠を長州藩家老毛利伊勢、大目付迫神甚五郎ら一行18人が越している。彼らは、その前日世羅郡敷名村に一泊し、この日、安芸国吉田へ向かった。旧暦の五月中旬といえば、この附近は田植えの最中であったが、約百七十人の百姓が一行の宿泊準備、賄い、警備に動員され、手伝わされた。その内の25人は、この日、人足として吉田まで同行して、同じく峠を越している。馬通峠は、備後国と安芸国の国境峠でもある。
 江戸時代、この道は、この附近では「御通り筋」といわれていた。それは浜田藩、毛利藩など石州・長州諸藩の江戸・大坂と国元を結ぶ近道として、尾道・甲山、小国、吉田、八重を結ぶルート上に位置し、頻繁に利用されていた。
         *
 明治になっても、しばらくは旧道が利用されている。明治22年(1889)の板木村の「道路保存取締規則」によれば、津名村より上板木村へ入って古井道、小原田、山崎、塔之岡、市、高鉢から馬通峠を通る道は、村内の主要な四本の道に数えられていた。
 しかし、明治20年代から30年代にかけて、県下の多くの道路がそうであるように、この附近の道路も改修が行われている。即ち、明治28年には三良坂 ― 小田村里道が、明治35年には三原 ― 吉田間の里道が、それぞれ改修を完了し、それらは30年代から40年代にかけて県道に昇格した。馬通峠も、この頃に2つの県道が頂上附近で交差する今日の峠の原型が生まれた。
 やがて大正7年(1918)、馬通国有林の大火災が起こり、約300ヘクタールが消失した。昼なお暗いといわれていた峠は、一変して明るいムードになったという。その後、昭和8年~9年にかけて、村民を大動員して行った峠の切下げ工事の結果、峠の様相はさらに一変したという。
         *
 昭和40年代から始まった県道世羅 ― 甲田線の改修工事は、昭和54年(1979)、この峠附近の工事を最後に完了した。かつて「大曲り」といわれ、トラックや乗合バスもあえいだいくつかのカーブはなくなり、舗装2車線の近代的な道路に生まれ変わっている。
 馬通峠は、歴史的には3代のプロフィール(横顔)を持っている。
(昭和56年5月 米丸嘉一)
写真【峠の頂上付近、二県道への村も交わる。標識や広告・立看板が多く目につく】

◆次回は破堂峠を紹介します。



◇   ◇   ◇

基本情報

名称株式会社 菁文社
フリガナ株式会社 菁文社
住所728-0023 三次市東酒屋町306-46
アクセス国道375号線三次工業団地口交差点より北へ850m
電話番号0824-62-3057
ファックス番号0824-62-5337
メールアドレスgeibigrf62-3057@seibunsha-f.com
営業時間8:30~17:30
定休日土・日曜、祝日
駐車場あり
関連ページホームページ
こだわり

まいぷれ[三次市] 公式SNSアカウント